国士無双、戦国



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加藤清正、国士無双

加藤主計守清正

加藤清正は、勇猛な武将として名が通っているが、本質は政治家的要素の高い人ではなかったのではないかと考える。

確かに勇猛な猛将的な逸話も多いのだが、豊臣の縁者でありながら、徳川の世を渡り歩いた世渡り上手であると思う。

彼の死に方は急死であったため、暗殺の噂が今も絶えないが、かなり衰えがあった事も事実であるようで、彼の豊臣に対する忠義心、武勇、戦国の世の中では恵まれた大きな体※説によると、彼が馬に乗ると、足が地に着きそうだったとか・・・。

この様な彼の庶民に対する人気が、暗殺説を生んだのではなかろうか?中国三国志の関羽に近い人気要素がある。

まぁ、韓国では、豊臣の朝鮮半島侵略時の武勇や蛮行もあって、非常に憎々しい人物にはなっているが・・下記に彼の概要を記載して見た。内容はフリー辞書からの抜粋である事を理解してもらいたい。

秀吉の子飼い
永禄5年(1562年)、尾張の土豪である加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれる。父の清忠は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が秀吉の生母である大政所の従姉妹(一説には妹)であったことから血縁関係にあった秀吉に仕え、天正4年(1576年)に170石を与えられた。

豊臣家臣時代
天正10年(1582年)に織田信長が死去すると、清正は秀吉に従って同年の山崎の戦いに参加した。その後、秀吉が次の天下人として台頭し、秀吉と対立する柴田勝家との間で天正11年(1583年)に賤ヶ岳の合戦が起こると、清正は「賤ヶ岳の七本槍」の一人として敵将・山路正国を討ち取るという武功を挙げ、譜代の家臣のない秀吉からその武功を賞されて3000石の所領を与えられた。

天正13年(1585年)7月、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下、主計頭に叙任する。天正14年(1586年)からは秀吉の九州征伐に従い、征伐後に肥後に入った佐々成政が失政により改易された後の天正15年(1587年)、肥後の半国のおよそ19万5000石を与えられ、熊本城を居城とした。このとき、肥後半国と讃岐とどちらかを選べと言われ、肥後を選んだという逸話がある。肥後における治績は良好で、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、世に知られた治水以外に商業政策でも優れた手腕を発揮した。

文禄元年(1592年)からの文禄・慶長の役では、朝鮮へ出兵する。文禄の役では二番隊主将となり鍋島直茂、相良頼房を傘下に置いた。二番隊は一番隊の小西行長とは別路の先鋒であり、4月17日の釜山上陸後は小西行長と首都漢城の攻略を競い、5月3日南大門から漢城に入城した。漢城攻略後は小西行長の一番隊や黒田長政の三番隊と共に北上し臨津江の戦いで金命元等の朝鮮軍を破る。その後黄海道金郊駅からは一番隊、三番隊とは別れ東北方向の咸鏡道に向かい海汀倉の戦いで韓克誠の朝鮮軍を破り、咸鏡道を平定、朝鮮二王子(臨海君・順和君)を生捕りにした。更には朝鮮の国境豆満江を越えてオランカイ(兀良哈・現在の中国東北部)へ進攻するなど数々の武功を挙げた。

しかし交渉材料に朝鮮二王子を返還してしまうなど、慶長元年(1596年)、石田三成と明との和睦をめぐって意見の対立が生じ、それが元で秀吉の勘気を受け京に戻される(一説に三成が清正の功績を本人の報告と食い違うように過少に讒言したためともされる)。しかし後に許された。

慶長2年(1597年)からの慶長の役でも再び小西行長とは別路の先鋒となり、朝鮮軍の守る黄石山城を陥落させると、全羅道の道都全州を占領。次に忠清道鎮川まで進出後に西生浦倭城に駐屯した。日本側では西生浦倭城の東方に新たに浅野幸長や毛利家家臣・宍戸元続によって清正が縄張りをした蔚山倭城を築城し、完成後清正を守備につける予定(西生浦倭城には黒田長政を駐屯予定)であったが、慶長2年(1597年)12月に完成間近の蔚山倭城への明の大軍が攻め寄せて蔚山城の戦いが始まると清正は急遽側近のみ500人ほどを率いて蔚山倭城に入城した。未完成で水も食糧も乏しい状況で明・朝鮮の大軍を防ぎきり、毛利秀元や黒田長政の援軍の到着まで城を守り抜いた。慶長3年(1598年)9月にも再び蔚山倭城は攻撃を受けるがこれも撃退に成功する。

また、清正は朝鮮の民衆から「犬、鬼(幽霊)上官」と恐れられた。朝鮮では五奉行の三成や小西行長ら、文治派と呼ばれる一派と対立する。なお、朝鮮出兵中に虎退治をしたという伝承が残りそこから虎拳という遊びの元になった。また、セロリを日本に持ち込んだとされており、セロリの異名の一つが「清正人参」である。



■清正の忠義
慶長16年(1611年)、豊臣秀頼が二条城で徳川家康と会見したとき、清正は浅野幸長と共に一命をかけて秀頼を守護するため、密かに懐中に短刀を忍ばせていたという。秀頼が暗殺されそうになれば、家康と刺し違えるつもりだったといわれている。[1]


■逸話
口の中に拳を入れる事ができたという逸話がある。その話を聞いた新選組局長・近藤勇も憧れていた清正にあやかり、真似をして拳を口に入れていたという。

▲平時でも常に腰に米3升と味噌、銀銭300文を入れていた。ある時親友の福島正則が「それでは腰が重いだろうが」と述べると、「わしだって軽くしたい。

だが、わしがこうしていれば家臣も見習い、常に戦時の備えを怠らないだろう」と答えたという。また、平時に腰兵糧をつけるのを忘れた小姓を怠慢であるとして免職にしたという。

▲清正は朝鮮出兵で三成と対立し、それが原因で秀吉から京に召還された後、伏見に蟄居させられていた。

しかし慶長元年(1596年)、伏見の大地震が起こって秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、清正は300人の手勢を率いていち早く秀吉のもとに駆けつけ、警護を務めたと言われている。

蟄居身分でありながら、これは秀吉の許しもなく駆けつけたものであり一つ間違えれば切腹となるところだったが、秀吉は清正の忠義を賞賛して朝鮮での罪を許したという。これにより、清正は「地震加藤」と称された。

▲清正は豊臣氏への忠義を終生忘れなかったが、家康を恐れその天下も認めていた。朋友の正則が家康の子・徳川義直が入る尾張名古屋城の普請を命じられたとき、「大御所の息子の城普請まで手伝わなければならないのか」と愚痴をこぼしたのに対して清正は「嫌なら領国に帰って戦準備をしろ」と告げたという。

▲徳川時代になって戦国の気風が謀反の心として警戒されるようになり、大名たちが髭を剃ることが流行りだしたとき貴殿もそられてはいかがかと進められたのに対して「鎧の頬あてに髭があたる感覚が心地よいので」と断ったことから、骨のある武将との評判がたった。

▲晩年は豊臣家への恩義と自家の徳川政権での存続に心を悩ませた。そのためか、論語に朱で書き込みをして読み込むほどであった。

徳川と豊臣の雲行きが怪しいなか、大阪からの船旅の中、清正のペットの猿が真似をして彼の論語の本に朱筆で落書きをしたのを見て「お前も聖人の教えが知りたいか」と嘆じたという。

▲清正が肥後北部24万石を治めていた頃、小西行長の領地の天草で豪族の反乱が起きた。

その援軍に向かった時、反乱軍でも武勇知られた木山弾正という豪傑と一騎打ちになった。

相手は弓の使い手で、矢を射ようとしたために清正は「一騎打ちなれば、正々堂々打ち物(太刀)で勝負」と声を掛けて、手にしていた槍をその場で投げ捨てた。

これを見た弾正も弓を捨てたところ、清正はすかさず槍を拾いあげて突きかかり、弾正の「たばかるとは卑怯なり」という罵りを受けながらも討ち取ったという(清正記)。

▲同じくこの反乱の際、反乱勢の籠もる志岐城に和平の使者を送り、志岐城側が出迎えの衆を寄越すと、これに突然襲い掛かって皆殺しにし、してやったりとして陣を敷いたという(清正記)。

▲木山弾正の遺児は横手五郎と名乗り怪力が自慢であったが、熊本城築城の人夫となり敵討ちの機会をねらっていた。

しかし、これに気付いた清正によって城内の井戸の中の作業をしているときに石・砂を投げ込まれ生き埋めにされたという。彼が運んだと伝わる「首掛け石」という凹型の巨石が城内にある。
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posted by appare at 22:28 | 国士無双

敵は本能寺にあり。

■本能寺の変
敵は本能寺にあり。
当時の覇者である織田信長を討った、明智光秀の言葉である。

1582年6月2日、信長は嫡男信忠とともに、波乱に満ちた人生を、明智光秀によって絶たれたのである。本能寺の変については、多くを語っても仕方がないだろう。

あまりにも有名なエピソードであるから、その歴史を語っても意味があまりないと思うからだ。だから、気になる事についてだけ述べさせてもらいたい。

何点かあるのだが、信長暗殺は、本当に明智光秀一人の決断によるものであるのか?と言う事だ。光秀は、織田の家臣団において、群をぬいたインテリであり、その一つ一つの行為、行動が、信長の癇にさわり、煙たがられて居た事は事実である。

また、作戦行動に於いても、高い能力を持っていた。そして、なによりも臆病な人物である。石橋を叩いても渡らないほどの慎重さがあったと思われるのである。

その慎重な光秀が、軽率にあのような行為に及ぶ事が本当に出来たのはなぜであろうかと思うのである。光秀は、本能寺に向かうに当たり、戦勝祈願と称して、お参りをしている。

その際、吉凶を占う為に、おみくじを引いている。彼は、良い結果が出るまで、何度も何度も引いているのだ。それだけの臆病いや、珍重極まりない男が、いくら精神的に辛い事があったとしても、あのような行動を単独でとる事が出来るだろうか?

この暗殺には色々な事が憶測として挙げられている。朝廷の光秀唆し説。あまりにもグッドタイミングな天下取りを行う事が出来た、秀吉の共謀説。

だが、資料が無く、キチンとした学説になる様な証拠がない。しかし、あの緻密な計算高い光秀が、信長を討った後の処置を考えていないとは思えないのである。

信長を討った後の光秀の行動は、あまりにもお粗末なものである。あの石橋を叩いても渡らない、慎重な男が考えたにしては、本当に納得が出来る様な対策とは見えない。

誰かが唆し、共謀を図り、そして光秀は裏切られた。もし、そうだったとしたら、憶測は可能である。

その最大の漁夫の利を得られる人物は誰なのか?と、考えるのが一番早い。信長が死んで、一番徳をした人物。真っ先に候補に挙げられるのは、やはり秀吉であろう。

しかしである。本当に秀吉だけが徳をしたと言えるのであろうか?いやいや、まだまだ居るのかも知れない。

本当の答えを知っているのは、あの世でさ迷う、光秀と秀吉だけであろう。
posted by appare at 17:29 | 国士無双
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